第4話 宗教のチカラ〜信仰心2(霊的な距離と幽体)

信仰心と知性(ふりかえり)

今回は、前回(第3話 宗教のチカラ〜信仰心)のつづきとなります。
 
前回は信仰心と知性を比べてみました。
 
「知性」は物事を分析し整理し、周囲のものを理解し、うまく活用しようとするこころの働きで、ともすれば、あらゆることがわかりやすくなるように事細かに分解し、分けて並べて見ようとするものかと思われます。
 
しかし、信仰の対象(たとえば「神」など)についてはどういった存在なのかの判断材料が少なすぎるため、各種の「神」概念の比較や類似の概念を比喩的に用いての検討で終わるようです。
 
そうなりますと、神、神仏など、科学などでのその存在の証明が困難な方々に対して、
存在がよくわからなくても自分から向かおうとする方向性をもつ「信仰心」というこころの働きはけっして侮れないものとなります。
 
接点を持ちたいと願う高貴な存在と人間との霊的な距離を、縮めうる可能性を持っているとも言えます。 
 
さて、今回はその信仰心について霊的な視点で踏み込みます。
 

信仰心と幽体

今回は前回の記事では、信仰心を、かなり持ち上げた内容の記事でした。
 
では、「信仰心さえあれば」すべてのことが解決するのかといいますと、
そう単純ではないようです。
 
下図は少々ゴチャゴチャして見にくい構図になっており、申し訳ないのですが、訴えるポイントは2つに絞られます。
 
1.幽体の存在である「守護霊・指導霊」と、同じく幽体を持っている人間とは
  相当に霊的な距離が離れている。
  その霊的な距離とは互いの幽体の状態や幽気の質による。
  加えて現在のように積極的に信仰を持つことの少ない時代では、
  その霊的な距離を縮めることも起こらないため、
  霊的に質の高い気を、受けることがますます困難となる。
  そのような状況のため結果として、守護霊・指導霊であっても、
  担当している人間を見失うことがほとんどという状況に陥っている
  昔には考えにくかった現象でもある。
 
2.強く真剣な信仰心は幽的な質量である「念」を生み出すことになるが、
  生み出された念がどのような霊魂に届くか、どのような霊魂が読みやすいかは
  念を発した人間の「幽体」の健全度、強さ、にしたがう。
  そして残念なことに、現在、地上で生活している人々のほとんどが、
  状態の良くない幽体を有している。
  というのも、幽体にとって良い栄養となる質の高い幽気がまずこの世にないため
  吸収する機会もなく、しかも小さな子どものときから競争の場に置かれ、
  立ちふさがる人々に互いに攻撃的な念を浴びせあった結果、
  互いに幽体がボロボロになるという、死後に向かう世界が心配になるほどの
  状況に陥っている。
 
 
 

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なお、上の図は祈っている人物の幽体が、A.と B. の異なる2つの場合を同時に画面に書き入れています。
 
右側 A.傷だらけで栄養不足の幽体(現代人の大抵の場合)
左側 B.損傷もなく質の高い幽気を吸収し、幽体オーラも十分出ている幽体
   (神伝鎮魂法などによる効果)
 
現代人の大抵はAとなります。
高級な幽気の吸収の機会もなく、まちがえて観光地化されたパワースポットに行って
さらに低い幽気にまみれ、これまでの人生の途中でついた幽体のキズも栄養が足りないため治らない状態が続くことから、そうなると予想されます。
 
B.になる人はほとんどいません。こうなる場合として予想できるのは
・幽体と肉体とズレないこと(ズレると霊的な事故が起こりやすくなる)
・幽体などの霊的身体のしくみや流れる幽気について十分踏まえた上での修行法やトレーニング法を日々実践していること、
・その修行法は高貴な霊魂の意図が組み込まれ「約束」が成り立っている行法であること。
・もっとも理想的なのは水波霊魂学でいう「神伝鎮魂法」の初伝。
ということになります。
 
ですが、他の瞑想などの修行はどうかと聞かれます。
瞑想は、行う場所の霊的環境を調整しうる人によって良い幽気のある場所として調整されている場合はよいかもしれません。ですが、そういう人は実際にはおりません。
 
調整しうると言うことは幽気についてよく知っているか、高貴な霊魂との約束事をわかり実践されている方となるのですが、瞑想の指導者は瞑想の方法の本は見ていて実践もしていますが、幽気と瞑想の関係、瞑想と霊的事故の関係を気にしていませんし、
瞑想の行い方の本にも書いていないため、誰も気にしていません。
ですので霊的環境の調整もできないまま、本にしたがって実践しているだけですので
心理的には何かしらよいのかも知れませんが、瞑想は現在、霊的な視点では大変危険な行為となります。
 
さて、今回は信仰心や祈りの霊的な背景について図示し説明文を加えてみました。
信仰心を伴う祈りはとても霊的な意義が高いと言えます。
 
しかし、祈りの念は幽体の脳から発せられるため幽体の状態に大きく影響されます。
そういう意味では、信仰心と幽体の状態はどちらも欠かせませんが
まずは
 
「幽体を鍛えましょう」
 
ということに帰結するようです。
本の紹介「神伝鎮魂法」をごらんください。
 

 

本の紹介と補足

信仰心と幽体についてはこちらにわかりやすく書かれております。

 

こちらにも、祈りと幽体について書かれております。(第5章)

たましいの救い - 人は表面の心だけで生きてはいない (MyISBN - デザインエッグ社)

たましいの救い - 人は表面の心だけで生きてはいない (MyISBN - デザインエッグ社)

 

幽体を鍛えるという意味では現在もっとも優れているのは「神伝鎮魂法」になると言えます。自分も実践しておりますが、初伝、次伝と次第に進んでいくと、いろいろと実感できることが多々あります。強く推奨します。

神伝鎮魂法 - 幽体の救い (MyISBN - デザインエッグ社)

神伝鎮魂法 - 幽体の救い (MyISBN - デザインエッグ社)

 

 

なお、わたくしは水波霊魂学を学び、霊的トレーニング法である「神伝の法」を日々実施しております。

ですので、皆様が、水波霊魂学に興味を持ち、神伝の法の実践に向かって下さるならば、このブログの記事を読まれなくても何の問題もなくわたくしは大変満足です。

多くの皆様が神伝の法のトレーニングを実施し、高貴な霊的存在を実感できるように進まれることをこころから願います。

さて、

わたくしが契山館に入門し、水波霊魂学を学ぶに至ったことについてですが、

それまで感じた霊的な疑問について、自分なりにいろいろ見聞きした結果、明解に疑問を解き明かしてくれたのが水波霊魂学であり

(特に、過去世やカルマ、幽体の話は決定的でした)

幾年かのトレーニングの実践であまり上手ではないにしろ、効果を実感するそれなりの体験を得ているからです。

ですので、わたくしがお伝えする内容はどんなに公平を心掛けても、

水波霊魂学や神伝の法への比重が大きくなります。 これは万能ではない人間としてのわたくしの限界です。そこはご承知おきください。

 また、記載内容はわたくしの理解度に基づいた個人的見解であり、契山館の公式見解ではありません。疑問などありましたらコメント欄もしくは連絡先に問い合わせ下さい。

 

 


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第3話 宗教のチカラ〜信仰心(知性の方向性との違い)

宗教こわい、は、どこから来たイメージだろうか

今回の記事は、直接的な「幽体」の話ではありません。
また、どちらかというと書き手の頭の中の整理であり、まあそういう考えもあるんですかねえ…という目で見てくださいましたら幸いです。
 
テーマは「信仰心」となります。
 
そうなのですが、信仰という言葉をあげると
  信仰
 ↓ えっ!?宗教
 ↓ ちょっとねぇ、だってねぇ
 ↓ わけわからないことに一斉にハマるんでしょう
  束縛されそうでコワい
 
というようなニュアンスを相手の方の言葉の端々にうかがえることが多くあります。
 
言いたいこともわかりますが、こういう場合のイメージの元となっているのは「宗教」そのものというよりむしろ、次のような過度の介入的な活動を見聞きしたことから来ているように個人的には思っています。
 
 例1.儲かります、幸せになります、を宣伝して人々を集団で集めて、投資やオトクな商品の購入を強制的に呼びかける活動
 例2.人々の生活への被害や権利の侵害が深刻であるとして、理解しにくい信条を元に、権利主張を大勢で激しく行う活動
 例3.この世的な価値基準から大きくズレてしまいながら極端な理想を追求している団体の活動。なお、この世の基準をどう思うかは本人次第ですが、他者の行動に著しい介入を行い、強制したり破壊的であったり、高額な物品の購入に誘導したりするような場合、ズレているといえます。
 
思いついたまま記載しましたが、おおよそ上の3つのどれかを思い
「宗教はみんな、あんなかんじ」
と過度に全般化した(決めつけた)、そういうことから固定化されたイメージではないかと思います。
 
さて、実は上の例3つは「宗教」そのものではありません。
なぜならば、高貴な存在への「信仰」を必須の要素としていないからです。
ただし、宗教の活動も上の例3つのどれかを伴うこともあります。
上記の3つを行うために「信仰」を正当化の理由に使う場合です。
しかし問題は、信仰ではなく、権威者の介入的な操作であると言えます。
つまり、
人々が嫌いなのは、宗教ではなく「介入的行動」なのです。
つまり過度に関わってくることがイヤだというわけです。
ここがよく勘違いされているように思います。
 
次は宗教の肯定的な面を見直してみます。

宗教の良いところ、と、よくある批判 

さて反対に、宗教の肯定的な面としては(世間的な視点で)
・芸術や創作のインスピレーションになる
・平和活動、福祉活動を実践する方々の動機の源泉となっている
・信仰などから、驕り高ぶらずに自己を振り返ることをうながしてる
 
など、いくつも良い面はあります。
 
一方で、戦争の原因になっているから宗教がよくないとの説もあるのですが
これまでの歴史上、戦争の原因の大半は利益や領土の奪い合いで、それでは正当な言い訳が出来ないために、神の名や信仰を看板にしたに過ぎず、宗教と言うよりは、本質は政治的な駆け引きとなっているようです。
ですので「宗教が悪い」は思惑のある国や権力者のシナリオによる表面上の理由かと思われます。
宗教戦争の実際は、民族や信徒の、権利や好待遇などの権利主張と、国をよこせとの領土問題が中心のようで、そこにどちらの利権を認めると自分達のためになるかを横目で計算している権力者の思惑が事態を悪化させていることが多く、純粋に信条の違いのみを動機とした戦争はかなりまれなようです。
 
ともかく、
宗教こわい、というのは宗教そのものと言うよりその他の権利主張や介入的行為への拒否感であり、悪いキャンペーンに載せられたような型にはまったイメージですので、一度、肯定的な面からの見直されてみることをオススメします。

宗教であるがゆえの良い持ち味 

あと基本的なところに目を向けますと
宗教は一般に「信仰心」を大切にし、神、仏、貴い方を前提としており、そうなりますと、神や仏や御使いや眷属がご覧になっていると思えば、人の道に反した行為を行なうことはなく、本来は真面目にとりくまれている方が多いものです。(ただし例外もあるのは残念ことですが)
 
宗教全般の話はこの辺で終わりとしますが
一般に「宗教きらい」というのは他者の行動に著しい介入を行う集まりがいやだ、という意味や詐欺的な勧誘を拒否するものであって
宗教本来の、そして宗教ゆえにもつ
 
・高貴な存在への憧憬、祈り、
・生きる上での不安である「死」についての思案、
・生きることの価値を問うこと
そして「聖なるもの」を認め、気持ちを向けること
こういった宗教であるがゆえの持ち味に関心が向けられないことが残念です。もっと注目されても良いように思われます。
 
ではこれより 信仰心という、ある意味、知性には出来にくいことを可能としてしまうこころの働きについて以下に続きます。
 

知性と信仰心

現代の人々にとって重要視されるもののひとつは

「知性」

かと思われます。

なお、自分は心理学者でもないので知性なのか知能なのか認知なのかという用語や定義的な問いにはうまく答えられませんのでさらっと流してください。

知性という言葉を使いますが、人の知的な判断能力全般の概要を記します。

 

さて、その知性は、文明を作り生活の利便性を上げ、測定できる事柄の差異をみつけ、より効果的な方法や環境を作ってきた源と言えます。

実際に、発達した知性によって人口がますます増えていくような安定した生活環境を維持できていると言えます。

しかし反面、知性は高度な殺傷能力を持つ兵器も次々と作りました。

してみると知性は、ものの特徴を見分け効果的に使うためには有効であっても、人間の欲望や思惑の絡み合いについては扇動する方にも抑制する方にもどちらにも作用するため人間の霊的な成長をあらわすとは単純には言えないようです。何か別のものと知性がかみ合うときには霊的に有効かも知れません。

 

ところで知性は「神を知る」「神を理解できる」ものなのでしょうか。

知性とは、違いを見分けて特徴をつかむと言うとき、最もその働きを表すように思います。またうまく整理されていないもやもやしたイメージを整理してならべてみることも得意なようです。

そして「理解」や「わかる」ことへと向かわせます。

しかし、

たとえば「神」について知性が取り組もうとするとき、神を理解する、神をわかる、ことができるのか、と言われますとせいぜい、自分の考えられる次元で判断材料をあつめてこういうことに近いのではないか、ああいうものなのではないかという想像が関の山で、とらえきれない存在には似た何かを比喩的に、類似のものとして判断の方法に使うことしか出来ないようです。

おそらく、これが知性の限界で、判断できるための材料を集められない場合は知性にはどうにも手の打ちようがないようです。

できるとしたら、ある宗教Aの神の概念、別の宗教Bの神の概念、それらを比較検討して多分こうだろう、という結論が出るくらいで、それは神を理解したとは言いませんし、神をわかったとも言えません。

知性は自分の次元に降ろしてきた材料を組み立てる作用が主のようで、接点の持てない事象については、類似のものからの想像しか出来ず、したがって知性のみでは霊的な未知のことをわかること、向上することは難しいのかも知れません。 

  

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つぎに信仰心のもつ特徴について記してみます。[イメージ参照]

信仰心とは、実に不思議なこころの働きと言えます。

なぜならば、証明されていない、根拠も不明である「上の存在」「高貴な存在」を前提にして畏敬の念を抱き、そちらに「近づきたい」「伝えたい」と願うことができるからです。

時々、信仰とは特殊な能力なのではないかとさえ個人的には思うほどです。確証がないのに存在を信じ、「近づきたい」「伝えたい」と願うからです。

もしかすると知性とはべつのところで確証や確信を持っているのかも知れません。ですがそれを上手く説明された例を見ませんので、やはり「どういう存在かはよくわからないのに信じることができる」というきわめて不思議なこころの働きであると言えます。

したがって信仰心は、まるで気持ちがあちらへ飛んで行くかのように見えます。本人もそのように仰ぎます。

このような一途な信仰心は、同じような信仰体験のない方にはその内容や話が伝わりにくいようで、「わからない」といわれることもあるようです。

残念です。まあでも仕方ないのかも知れません。本人ですら「どういう存在かはよくわからないのに信じることができる」のですから。

そうしてみると、信仰心は、自分と随分離れているであろう「上の存在」「高貴な存在」との霊的な距離を縮めることの出来る可能性をもっているようです。これはある意味すごいことであると言えます。

 

まとめますが

知性は自分で判断できる範囲に対象の情報や材料を集めてくるため、とらえようとする対象にまるで手が届かない様な場合は、その距離を縮めることが出来にくいと思われます。

しかし信仰心は「どういう存在かはよくわからないのに信じることができる」ため、霊的な距離を縮めることの出来る可能性を持ち得ます。おそらく。

 

では信仰心は無敵か?

と言われましたら、実はそうでもないようで、人間の霊的身体である「幽体」の状態次第のようです。

といいますのも、祈りや信仰上の想念は、肉体ではなく、幽体の脳から発せられるからであり、肉体がどんなに高尚な思考であっても、想念の質は幽体が健全か、幽体が成長しているか、幽体に力があるかに左右されるからだそうです。

次回は

信仰心と想念と幽体について簡単に記してみたいと思います。

最後までお読みくださいましたみなさまには、なんとなくのイメージで宗教をとらえるのではなく、宗教が持ちうる「信仰心」や他の面で宗教を見直してくださることを願います。

 

 

本の紹介と補足

人間の知性が霊的に助けとなる場合と、状況を霊的に悪化させていく場合の双方について、人間の霊的な歴史をふまえて記載されております

 

第10章の3には、信仰心と幽体についても書かれております

 

 

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第2話 私はどっち?〜肉体の脳の「私」と幽体の意識の私

人の死後

(今回の記載は下記の書籍の内容をまとめたものとなります)
 
人の死後、
 
肉体は生命活動を停止し、土に還ります。
肉体と重なっている幽体は、肉体を離れ、幽質界(幽質の世界)へ還ります。
 
なお、肉体と幽体を結びつけていた間気の後始末をどうするかは個々に依るとのことです。
 
さて、
 
生前、地上で生きていた「私」はどうなるのでしょう。
 
人の死後、
幽体は幽質界にはすぐには向かわないとのことです。
実は、夢を見ているような状態でしばらく経過するようです。
その間に肉体の意識と幽体の意識に何かが起こるようだとのことです。

 

「私」とは?

そもそも「私」とは、何なのでしょうか。
 
通常「私」と呼ばれるものは、肉体の脳の活動に依り、脳というコンピュータの機能に依り、表現されている意識だと言えます。
 
「私」として表れているものはそうであると言えますが表れていないものもあるかもしれません。
それらを心理学では潜在する意識、自覚化されていない無自覚な意識というようです。
 
自覚されていないとのことですから、何がどれくらいあるものかも実はさっぱりわかりません。
人によっては、何パーセントが表層の意識で、何パーセントが潜在意識という数字も出されているようで、そうしたものを世の中に見るのですが、どこから来たのか不明な数字に見えます。
 
実はこのあたりの詳細はよく分かっていないようです。
 
しかも心理学は昨今、意識された心理を得意とし、無意識や潜在意識という概念を積極的に使わなくなっていると聞いたことがあります。
せいぜい、物事の認知や判断に影響する無自覚な心理作用を調べることにとどまるようです。つまり、人格への影響を考察するための無意識や潜在意識は現在それほど主流にはなっていないようです。
 

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さて、
一口に「私」と言うのですが、肉体と重なっている霊的身体である幽体をも含めると
さらにわからなくなってきます。
 
通常、意識活動をして自覚されている「私」にとって、幽体の「私」はまるで別人のようだとのことです。
 
幽体の意識はと言えば、考えていることがまるで肉体の「私」に伝わらず、ほとほと困っているとのことです。
 
肉体の意識はあたらしく誕生した意識であれこれと経験し学び習得しどんどん進みたいのですが、
幽体は面倒なことはしたくなく、楽をしたい。手を抜いて苦しくなく過ごしたいというのが幽体の大半の意見であると霊魂の方々は伝えられております。
 
しかし、時々、
肉体の体験を通して
幽体の意識が騒ぎ出すことがあるようです。
 
沢山の過去世の経験から、眠っていた何かしらの思いが強く表にあらわれてきて、
そのような強い思いは肉体にも伝えられ、肉体の意識もいいようのない何かしら強い感情を伴った衝動として感じ、
それらが意識に上ってくるのだそうです。
 
これは、大変な結果を招くことがあります。
 
となりますと、この衝動の結果は良いのでしょうか悪いのでしょうか。
この結果、人生は大きく影響されます。
肉体の私は大きく影響された選択行為を取るでしょう。
 
果たしてどういう結果になるのでしょう。
 
こうした大きな衝動を起こす幽体の意識を改善するのには
最も適した霊的修行法があります。
それは神伝の法である「神伝禊法」が随一と言えます。
 
過去にもいろいろな霊的修行法はあったのですが、
もう詳細は不明であったり、
現在の分刻みの社会生活に合わない長い時間の修行を要するなど
明らかに現在の社会生活に適しておりません。
 
となると、やはりここは神伝禊法が随一であると言えます。
 
皆さんには、ぜひ「神伝の法」を体験していただくことを真に願います。

 
 

次回のために

さて、次回のために少しだけ
 
「私」はあれこれと願い思い、活動し、どんどん立派になるのですが
それは、即座に
幽体が立派になると言うことではないようです。【ここ重要です】
 
幽体は、幽体独自の考えをもち、肉体の私に、ムリをするな、つらいことは避けよう、面倒なことは誰かに任せて楽をしよう、と言うようです。
 
肉体が愛の人になっても、幽体はそう簡単に変化することはないようです。
そして霊的な世界との接点が強いのは、むしろ幽体の方だと言えます。
例えば
肉体のこころの波動がどうなろうと(波動説はピントがズレていますがその話はさておき)
幽体はそうは思っていないようです。
 
したがって幽体は栄養も少なく、不満も多く、成長も遅い、なかなか大変な「私」だそうです。
しかも、念によって傷ついてしまえばさらに一層活力が落ち、霊的にはドンドン悪くなるという残念なことも続きます。
 
そうなのです。
これが、神伝の法に関わる霊魂の方々が最も心配している世の人々の悲劇の発端なのです。
幽体を鍛えよう。
幽体に活力を。
肉体の私は愛でも何でもいいですが、
まず幽体を健全にしよう。栄養を与えよう。そして肉体と二人三脚で成長を目指しましょう。
それがこの世に生まれてきた本当に価値のある霊的な意味と言えましょう。
 
と書き手は思っております。
神伝の法をススメます。
 

 

本の紹介

特に第7章以降の幽体と死後の世界についてを参照しました  

 

幽体の意識についての詳細、おそらく類書他になし。貴重な書籍

幽体の悲劇 - 人は幽体と共に生きている (MyISBN - デザインエッグ社)

幽体の悲劇 - 人は幽体と共に生きている (MyISBN - デザインエッグ社)

 

 

 

※補足 

なお、わたくしは水波霊魂学を学び、霊的トレーニング法である「神伝の法」を日々実施しております。

ですので、皆様が、水波霊魂学に興味を持ち、神伝の法の実践に向かって下さるならば、このブログの記事を読まれなくても何の問題もなくわたくしは大変満足です。

多くの皆様が神伝の法のトレーニングを実施し、高貴な霊的存在を実感できるように進まれることをこころから願います。

さて、

わたくしが契山館に入門し、水波霊魂学を学ぶに至ったことについてですが、

それまで感じた霊的な疑問について、自分なりにいろいろ見聞きした結果、明解に疑問を解き明かしてくれたのが水波霊魂学であり

(特に、過去世やカルマ、幽体の話は決定的でした)

幾年かのトレーニングの実践であまり上手ではないにしろ、効果を実感するそれなりの体験を得ているからです。

ですので、わたくしがお伝えする内容はどんなに公平を心掛けても、

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第1話 その世界(死後の世界)で暮らすにはその世界の刺激に十分耐えうる強さをもった体(幽体)が必要です。

はじめに、ここでは…

わたくしは死後の世界があると思っております。

その論理的是非や討論をここでは行いません。

わたくしにとってはあるかないかということが重要ではなく、 

あるとして、より重要度の高いことは何か、

これがわたくしの、そしてこのブログのテーマになります。

そして、

重要キーワードとして「幽体」をとりあげてお話します。

 

たとえば

たとえば、 標高の高い土地柄で生活する場合には、高度や空気の薄さに対して問題の起こらない体が必要です。

たとえば、 寒冷地で生活するときには、体温保持に問題のおこらない体が必要です。

そして、

もしも熱や光の放射が強い場合、本来であれば、熱は体温保持や代謝に役立ち、

光は生活を心地よくするのですが、しかし、体の耐えうる範囲以上の刺激や 働きかけが続いた場合、その体では、そこで生活することは困難です。

刺激に十分耐えうる強さを持った体ではないからです。なので

その世界の刺激に十分耐えうる強さをもった体が必要です。

 

さて、死後の世界では、どうでしょう。

さきほどの例を応用しますと、死後の世界ではそこで用いる体が

どの世界の刺激に耐えうるか、

どの世界であれば自然に過ごせるか、

その結果、該当するところが死後に暮らす世界になると受けとめております。

下のイメージ図は「霊的に高級な気=光の強さ」と幽体の比喩で作成しました。参照下さい。

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死後の世界で用いる体とは?

ところで、 死後の世界で用いる体とは何でしょう?

でしょうか、幽体でしょうか、霊体でしょうか、アストラル体でしょうか。

これは、提唱された方の定義によるため一律に用語の比較はできません。

ただ、世の中で聞く説では 死後の世界を霊界、用いる霊的身体を霊体とされているものを多く見ます。そこからイメージされる内容が実状に近ければ問題はないのですが、

どうもそうではないのかもしれません。

 

わたくしが学んでいる水波霊魂学では

 

  死後の世界を幽質の世界(幽質界)(幽質によって構成されている世界)

  死後に用いる体を幽体(幽質によって構成されている身体)

 

として説明されております。そして幽質の世界とは高い階層から低い階層まで相当に幅があるようです。

簡単に二分しますと「上層幽界」はまずまず安心して過ごすことのできる幽質の世界

「下層幽界」はそこにいる霊魂の間でいさかいや暴力や大変な事の続く幽質の世界であるとされております。単にこころの問題ではないのですが、なぜそうした事態になるかは、いずれ書きたく思います。

というわけで幽質の世界は大きな幅のある世界のようですが、共通点があり、

幽質の世界とは幽質で構成された「幽体」を表面の身体として暮らす世界と言えます。

この言い回しでいいかえると、

地上とは「肉体」を表面の身体として暮らす世界であると言えます。

 

水波霊魂学は霊媒である水波師と活動を支援されてる多くの高貴な霊魂の発言をとりいれて提唱されております。

ですので、用語が世の中で使われている言い回しと同じものにしなかったのにはねらいがあるように思われます。

わたくしが思うに、 

 ひとつに、

 霊界ということばを取り入れた場合、それ以上の世界の説明に適したことばが

 見つかりにくいこと

 

 ふたつに、

 通常、人間が死期を迎えた場合、霊界と呼びにくい低い世界にいく事例が

 かなりの例で存在し「死後は霊界」とする世の中の使用例のままにしてしまうと

 実状にそぐわないことの説明を加えねばならず、

 かえってわかりにくくなり誤解されやすいこと

 

  なのではないかと予想しております。

  あくまでも、わたくしの理解の範囲ですのでちがうかもしれません。

 

次回以降はこの「幽体」の話と「鍛える」話、その方法としての「神伝の法」の紹介をすすめていきたく思います。

 

次回以降への疑問とヒント

・霊的トレーニングを本で見て行うことの危険な理由

・肉体には空気や栄養が必要ですが その死後に用いる体(幽体)にはなにが必要な

「栄養」になるのでしょう?

・よくある霊的多重身体論の図は正しいのかどうか。

 

※補足 

なお、わたくしは水波霊魂学を学び、霊的トレーニング法である「神伝の法」を日々実施しております。

ですので、皆様が、水波霊魂学に興味を持ち、神伝の法の実践に向かって下さるならば、このブログの記事を読まれなくても何の問題もなくわたくしは大変満足です。

多くの皆様が神伝の法のトレーニングを実施し、高貴な霊的存在を実感できるように進まれることをこころから願います。

さて、

わたくしが契山館に入門し、水波霊魂学を学ぶに至ったことについてですが、

それまで感じた霊的な疑問について、自分なりにいろいろ見聞きした結果、明解に疑問を解き明かしてくれたのが水波霊魂学であり

(特に、過去世やカルマ、幽体の話は決定的でした)

幾年かのトレーニングの実践であまり上手ではないにしろ、効果を実感するそれなりの体験を得ているからです。

ですので、わたくしがお伝えする内容はどんなに公平を心掛けても、

水波霊魂学や神伝の法への比重が大きくなります。 これは万能ではない人間としてのわたくしの限界です。そこはご承知おきください。

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